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zoom RSS 地下鉄サリン事件の井上被告、死刑廃止運動について

<<   作成日時 : 2011/07/08 23:14   >>

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 京都の相応学舎において、井上被告のご両親が熱心な真宗門徒ということで、井上被告の死刑をとりやめてほしい、という署名運動があることを知りました。昨日も、輪王会で、その署名運動を訴えていた先生がおられました。
 すると、あるご門徒の方が「私は署名することはできません」と勇気を持って反論していました。
 私は、真宗は死刑廃止を訴えているのか?よくわかりません。確かに承元の法難で、四人が念仏糾弾において死刑になり、親鸞聖人が「主上臣下、法に背き義に違し、忿を成し怨みを結ぶ」と述べられています。しかし、これが果たして死刑廃止に結びつく言葉なのでょうか?
父を殺し、母親までも殺そうとしたアジャセは、釈尊に出遇い、「我常に阿鼻地獄に在りて、無量劫の中にもろもろの衆生のために苦悩を受けしむとも、もって苦とせず」と告白しています。これは「たとえ死刑になって苦としない」と読むことができるのではないか?とも思います。
 真宗においては、死刑廃止ということよりも、「罪を犯した人は死んで償いましょう」と自らの罪を認めていく、厳しい自己批判を訴えていくべきではないか?と思います。これが機の深信なのです。そのような本人の自覚を促すとともに、周りの人は罪の自覚をされた人をどう支援していくか?というになると思います。
 日本には終身刑がありませんから、安易に死刑廃止を唱えることはいかがなものかと思います。自分の犯した罪をどこまで本人が自覚していくか?という視点を大切にしていくべきではないか?と思います。

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はじめまして(?)
昨日から孤野先生の歎異抄の授業がはじまりました。
アングリ・マーラーのお話が中心でした。
999人を殺したアングリ・マーラーが托鉢にまわると
「この人殺し!」と罵声を浴びせかけられ、石を投げつけられた
という場面をお話されたとき、私はふとこの井上氏の裁判の情景を連想してしまいました。井上氏も裁判で被害者の罵声を浴びたときは、「自分は大変なことをしてしまった」と気がついてボロボロになったようです。

死刑が確定した人は、家族以外とほとんど接触(交流)できませんから、自分の世界に閉じこもらざるを得ないでしょう。「死刑」の宣告だけでは、罪の自覚や深まりはなかなか難しいと思われます。実行犯は自分の手で人を殺したという認識がありますが、連絡役・調整役などをしていた人は「自分はだまされただけだ。麻原に殺されるのが怖くて言われたことをしただけなのに、なんで死刑にされなければいけないのか」とずっと思い続けて、罪を認められないままになってしまうような気がします。だから、できるだけ被害者の気持ちがみえる場所においてあげる必要があると思いますし、罪の自覚がうわっつらの観念的なものに陥らないように手助けする人も必要だと思います。

もちろん真宗関係者には死刑廃止運動をしている方達がいて、そういう人が主に署名をされていると思いますが、「罪を自覚してほしい」「(不可能だけれど)なんとか罪を償おうとしてほしい」と思って支援していらっしゃる人も必ずいます。現実には前者の立場の人は元気で、後者の立場の人は疲れ果ててしまいますけどね。
イモ
2011/09/21 11:15
返事が遅れました。何しろあまりブログを見ないのでお許し下さい。オウムの事件は麻原氏が悪者になっていますが、弟子を非常にかばっていた、という説もあります。私もよくわからないですが、罪を自覚したら死刑でもいい、と本人は自覚するのではないでしょうか?山折哲雄氏の「麻原氏は救われるのか?」という深い問いこそ大切なのではないか?とも思います。
悲心
2011/10/13 23:28
逃亡犯を除き、オウムの裁判が終結しました。
被害者や加害者の家族同様、私も麻原が何も話さなかったことに怒り、もどかしさを感じます。
事件以前の麻原の反社会的言動から見れば、初めから社会、既存制度の法から裁かれるのは、謂われのないことなのでしょう。しかし専制君主が自分で命令しておいて、弟子が暴走したという弁護側の主張が容認されるわけがありません。
死刑制度が妥当かどうか、私は制度存続に賛成です。
大きな犯罪抑止力になるからです。放っておけば人間何をするかわからないからです。縁がもよおせば何事をもすべし。煩悩具足の凡夫であるからこそ死刑がないと、どんな犯罪も起こりうる。人の命を殺めてしまった、この罪の重さを実感するには、ちょっと乱暴ですが、犯人の命を奪うということによって犯人に罪の自覚、反省をうながすのが近道だと思います。死刑確定から執行までの限られた間に、教誨なりなんなりで死刑囚に教育を施し、反省を促すことをしなければならない。
tituler president
2011/11/27 22:25
井上死刑囚の死刑停止の署名活動が妥当かどうか、巷で流行っている「ハーバード大学白熱教室 in東京大学」でサンデル教授が、自分の弟が殺人を犯した場合、東大教授の兄である自分はどういう行動をとるべきか、と問題を提起しました。
警察に逃亡先を告げていいのか、いけないのか?
警察に協力すれば、自分の家族への忠誠はどうなるのか、
協力しなかったら、法秩序、自分の道徳観念はどうなるのか、難しい質問で、様々な意見が出ました。
私なら警察に協力して、弟の逃亡先を教える。弟に反省を促すためです。その上自分も東大教授を離職する。弟の責任をともに背負うためです。その代わり知り合いに頼んで辣腕弁護士を紹介してもらう。
それが家族だと思うのです。犯人と一緒に罪を分かち合い、被害者に詫びるのです。家族から犯罪者を出した責任を取る、難しいことですし、社会からのパッシングも強いでしょうが、けじめをつけるにはこの方法しかないと個人的には考えています。
「麻原は救われるのか?」という問いに、浄土真宗の考え方なら、救われると思います。死刑になって命を失うことには変わりませんが。阿弥陀様の本願は、一切衆生全てに対して善悪にかかわらず皆平等にかけられている、本人がどうあろうと、この人を救いたいという阿弥陀様の願いは生きている。そして倶会一処、如衆水入海一味に収斂される、麻原の場合、自分は特別な人間だと思っているから、この教えを聞くと屈辱を覚えるでしょう。しかし麻原でも救われるという証明を見せられたら、他の人もそれに感化を受けて、自分も必ず救われるという確信をますます強めていけるのではないか。いつしか麻原も人々の善知識に変わっていることでしょう。あくまで私見です。
tituler president
2011/11/27 22:26
設復有人 若有罪 若無罪 杻械枷鎖 検繋其身 称観世音菩薩名者 皆悉断壞 即得解脱

一心称観世音菩薩名号 是菩薩 能以無畏 施於衆生 汝等若称名者 於此怨賊 当得解脱 

或遭王難苦 臨刑欲寿終 念彼観音力 刀尋段段壞 或囚禁枷鎖 手足被杻械 念彼観音力 釈然得解脱

「観音経」ですが、他力本願というキーワードで読み直すと、獄中にあっても精神の解放、拘束・束縛からの解脱が得られます。肉体の解放・出獄を祈るのではなくて、お経の中の言葉に触れることで、心の中に自由な空間をイメージ、構築することができます。
つまり、束縛されている自分の心も空(縁起的に存在している実体のないもの)、手錠も空、塀も鍵も空、首を切る刀も空。ないものによって苦しめられている自分の煩悩に気が付く。そうすると自然に解放、体は拘束されていても、心は自由、なんとでもなることができる。首を刎ねられても刀はなく、生の延長上の死で、仏様は苦痛と恐怖を取り除き、浄土へ導こうとされている。
tituler president
2011/11/28 00:16
十八願には唯除の文があり、五逆と誹謗正法を犯した者は本願から除かれる、とあります。この文を法然は「選択集」では載せませんでした。親鸞はご存知のように引用されています。
唯除の文は人間の分別に即して書かれているのではないか?と最近いただいています。除かれる者がいれば被害者の家族はある意味救われるのではないでしょうか?抑止と意味と両方あるのではないでしょうか?来年のテーマにしたいと思います。
悲心
2011/12/04 00:32

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